いま注目の「ネイチャー・ポジティブ」って何?

生物多様性の損失に歯止めをかけて、自然をプラス方向に改善していく「ネイチャー・ポジティブ」が注目されています。

具体的にはどんな動きがあるのでしょうか? 事例のひとつとして、キリングループがスリランカの紅茶農園で続ける「レインフォレスト・アライアンス認証」取得支援のほか、国内外でおこなっている取り組みをご紹介しましょう。

ネイチャー・ポジティブとは?

「カーボン・ニュートラル」と並んで、「ネイチャー・ポジティブ」が国際的な環境分野の2大トレンドになりつつあります。
ネイチャー・ポジティブとは、生物多様性や自然を優先するという意味。さまざまな生物の「種」、同じ種のなかの「遺伝子」、環境や生物同士のつながりの「生態系」などの多様性の総称が「生物多様性」で、1992年にブラジルで開催された地球サミットで生物多様性条約が採択されました。

ところで、今後10年で最も深刻なグローバルリスクは何でしょう?
世界経済フォーラムは「グローバルリスク報告書2022」で、「気候変動への適応の失敗」、「異常気象」に次いで、「生物多様性の喪失」を挙げています。(グローバルリスク報告書2022年版: 2022年のグローバルリスクのトップは、気候変動への適応の失敗と社会的危機 (marsh.com)

生物の絶滅スピードは、人間活動(開発や乱獲など)や気候変動の影響で加速しており、現在は過去1000万年間の平均の数十〜数百倍といわれています。「生きている地球レポート2020」(WWF=世界自然保護基金)によると、1970年から2016年の間に、モニタリング対象の哺乳類、鳥類、両生類、爬虫類、魚類の個体群で、平均68%も減少しているとの報告もあります。(生きている地球レポート (wwf.or.jp)

日本国内でも問題は深刻化しています。2020年に公表された環境省のレッドリストによると、日本の絶滅種はニホンオオカミなど110種。絶滅が心配される絶滅危惧種は3716種にも及んでいます。(環境省レッドリスト2020の公表について | 報道発表資料 | 環境省 (env.go.jp))生物多様性の損失を食い止めるための対策を講ずるには、今後10年間が勝負とされています。

生物多様性保全へのグローバルな動き

生物多様性が失われる一方で、それを回復させるための対応策は非常に遅れていました。ところが近年、生物多様性損失への危機感や、脱炭素化に伴う森林をはじめとした生態系サービスに対する関心の高まりから、生物多様性保全に向けた取り組みがいろいろと始まっています。2つのグローバルな動向に注目してみましょう。

ひとつは、2030年までに陸域と海域の面積のそれぞれ30%を保全して、生物多様性を維持する新たな国際目標「30by30(サーティ・バイ・サーティ)」(30by30|環境省 (env.go.jp))が設けられたことが挙げられます。日本など先進国は2021年6月のG7サミットでこの目標に合意、30by30の目標が実現できた場合、生物の絶滅リスクを3割程度減らせるとの分析もあります。

2022年12月、カナダ・モントリオールで開催された国連生物多様性条約の第15回締約国会議(CBD-COP15)で、2030年までの世界の生物多様性保全の目標を設定した「昆明・モントリオール生物多様性枠組み」が採択されました。そして、2030年までに自然の損失を止めてプラスに転じる「ネイチャー・ポジティブ」の達成を目指して、23の目標が設定されたのです。(COP15:世界の生物多様性の3分の1を保護する「歴史的」合意で閉幕(UN News 記事・日本語訳) | 国連広報センター (unic.or.jp)

目標には、「陸と海の30%保全(30by30)」(目標3)や「環境への栄養分流出を半減、農薬リスクを半減、プラスチック汚染を削減」(目標7)、「食料廃棄を半減し、過剰消費を減らし、市民の責任ある選択と情報入手を可能にする」(目標16)など、数値目標に加えて、企業への要請が数多く盛り込まれました。(COP15閉幕 新たな生物多様性国際目標が決定 今後、世界と日本に求められることは? |WWFジャパン

グローバルな動向のもうひとつが、自然への影響評価の枠組みを構築する「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」の発足です。企業の気候変動への具体的な取り組みの開示を推奨する国際組織に「TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)」がありますが、TNFDはその生物多様性版。世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で着想され、2021年6月に発足しました。企業や金融機関に対して自然資本への依存度や影響に関する情報開示を促すことで、自然保全の活動へと資金の流れを移行、世界経済に回復力をもたらすことを目指しています。

このタスクフォースをステークホルダーの立場からサポートすることを目的とした企業・団体から成るネットワーク「TNFDフォーラム」が組織され、ネスレやダノン、マクドナルドといったグローバル企業やエレン・マッカーサー財団、WWFなど300以上の団体が加盟。日本企業からの参加も増えています。(自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)フォーラムへの参画について | 報道発表資料 | 環境省 (env.go.jp))「気候変動の次は生物多様性。社会の注目度が高まっており、企業も配慮が欠かせなくなった」といった声が、企業でサステナビリティを推進する多くの担当者から聞こえてくるようになったのです。

COP15で、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)のエマニュエル・ファベール議長は、同審議会が、気候変動とともに自然への影響評価と情報開示に取り組むことを明言しました。その際、TNFDの枠組みをベースに基準を検討するとしています。(COP15: ISSB to incorporate nature into disclosure standards – ESG Clarity

キリングループの取り組み

「ネイチャー・ポジティブ」の先駆的な実践例として、キリングループの取り組みをみてみましょう。
同グループが展開する事業は、飲料・ヘルスサイエンス・医薬で、いずれも水と農産物といった自然資本が主原料。最も気候変動と生物多様性の影響を受けやすいと考えられます。これらのリスクをビジネス機会ととらえ、持続可能な経営につなげていくことを目指して、「環境ビジョン2050」が策定されました。(キリングループ環境ビジョン2050 | 環境 | キリンホールディングス (kirinholdings.com))また、生物多様性については、特定の地域で損失が生じた際に他の土地で補完できないという特徴があるため、取り組みではローカルな視点を重視し、生産地に焦点を当てることが考えられています。

たとえば、日本国内では、グループ企業のメルシャンで「日本ワイン」の生産・販売の拡大に向けて遊休荒廃地をヴィンヤード(ブドウ畑)に転換する取り組みを進めています。(ブドウ栽培と日本ワイン産業の活性化 | 原料生産地と事業展開地域におけるコミュニティの持続的な発展 | キリンホールディングス (kirinholdings.com))自社管理畑を拡大することで、遊休農地の活用に貢献し、契約栽培農家からブドウを継続的に購入することで長期的に地域農業の保全・維持を目指しています。国立研究環境開発法人農業・食品産業技術研究機構との共同研究で、ヴィンヤードへの転換による環境影響を調査したところ、ヴィンヤードの垣根や草生栽培を通じて良好な草原環境が形成されていることがわかったそうです。まさにネイチャー・ポジティブの思想が生きています。

スリランカの紅茶農園で「レインフォレスト・アライアンス認証」取得を支援

国内だけではありません。ネイチャー・ポジティブの取り組みは、原料調達先の途上国の現場にも、もちろん適用されています。看板商品「午後の紅茶」の原料茶葉の生産地はスリランカです。紅茶葉の輸入量は、日本がスリランカから輸入する紅茶葉のなんと4分の1に当たります。したがって、生産地の生態系を守らないと安定的な供給は望めません。同グループでは10年以上前から現地の生物資源や水資源のリスクを調査し、生態系の保存活動をおこなってきました。

そのひとつが、スリランカの紅茶農園向けの「レインフォレスト・アライアンス認証」の取得支援です。(スリランカにおける紅茶農園支援 | 原料生産地と事業展開地域におけるコミュニティの持続的な発展 | キリンホールディングス (kirinholdings.com))この認証は、自然資本とつくり手の両者を守りながらより持続可能な農法に取り組み、持続可能性の3領域である環境・社会・経済における要件を満たした農園に与えられるものです。

たとえば、社会の領域では、茶摘み労働者の労働条件の向上や家族の生活環境の向上など人権に関する項目が含まれます。児童労働はもちろん禁止されていますし、住宅の提供や農園内に診療所や託児所を設けるなどの工夫が求められています。経済の領域では、農薬や肥料の使用量を抑えながら収量を上げるなど科学的な農業技術のトレーニングがおこなわれます。農園の土壌が良い草で覆われて、地滑りが起こりにくくなる草管理のトレーニングも重要です。

こうした支援は2013年からスタートし、2019年までに84の大農園がレインフォレスト・アライアンス認証を取得、これはスリランカ全体の認証農園の約3割に当たるといいます。スリランカには、大農園の周囲に数十万の小農園があるそうで、2018年からは小農園の認証取得支援を開始し、2025年までに1万件を目指しています。

現地で得られたネットワークを活用して、同グループはさらに新たな取り組みとして、水源地保全活動を始めています。水源地を柵で囲み、地域の在来種を植林することで単一栽培の紅茶農園に多様性を与え、集中豪雨などで山の斜面から流出した土砂が水源地に流れ込むことを防いでいます。

TNFDの指針に沿った「環境報告書2022」

同グループは今年7月、「環境報告書2022」を公表しました。(環境報告書 | IRライブラリ | キリンホールディングス (kirinholdings.com))水や生態系など自然資本の減少から見た事業リスクを、国際組織TNFDの指針に沿って開示しています。同指針に沿った開示は国内では初の試みで、同グループの強い意気込みが感じられます。

TNFDは、ローカルな場所に焦点を当てて自然資本への影響や対策の優先順位を付ける「LEAPアプローチ」という方法を提唱しています。具体的には、「自然との接点を発見(Locate)」⇒「依存関係と影響を診断(Evaluate)」⇒「リスクと機会を評価(Assess)」⇒「自然関連リスクと機会に対応する準備を行い投資家に報告(Prepare)」といった4つの項目(それぞれの頭文字をとってLEAP)を順番に分析します。

気候変動と生物多様性はコインの表裏の関係にあります。今回のCOP15の会場には、これまでになく、企業関係者や投資家の姿があふれたといいます。自然の損失は、企業に大きな資源リスクをもたらす、しかも待ったなしだ――サステナビリティ経営を追求するには、気候変動と同時に、自然関連リスクを統合的に分析することが必須の時代になったといえるでしょう。